第01号
|
1962年
|
「救済史の理解について」
|
関根正雄
|
第01号
|
1962年
|
「アンフィクチオニー仮説批判」
|
石田友雄
|
第01号
|
1962年
|
「捕囚期前の預言者における契約の問題」
|
中沢洽樹
|
第01号
|
1962年
|
「福音伝承にみられる『時』の理解の変遷」
|
田川建三
|
第01号
|
1962年
|
「パウロの救済史観」
|
八木誠一
|
第01号
|
1962年
|
「ヨハネ福音書と救済史」
|
木下順治
|
第02号
|
1963年
|
「時と人間 ── イエスの思想研究の試み」
|
田川建三
|
第02号
|
1963年
|
「原始教団における復活信仰の成立」
|
八木誠一
|
第02号
|
1963年
|
「グノーシスのイエス理解 ── いわゆる『グノーシス救済者神話』批判」
|
荒井献
|
第02号
|
1963年
|
「トマス福音書と歴史的イエス」
|
R・J・ハンマー
|
第03号
|
1964年
|
「最近十年間における僕の歌の研究」
|
中沢洽樹
|
第03号
|
1964年
|
「ヤハウェ即位の詩篇 ── 研究史の回顧と展望」
|
木田献一
|
第03号
|
1964年
|
「アモスにおける『預言』と『祭儀』」
|
吉田泰
|
第03号
|
1964年
|
「聖書考古学の鉄器時代 ── MMSThの問題」
|
後藤光一郎
|
第03号
|
1964年
|
「出エジプト記1-15章における過越伝承の問題 ── 旧約祭儀研究の方法論的一考察」
|
加納政弘
|
第03号
|
1964年
|
「旧約聖書の地中海的背景」
|
関根正雄
|
第04号
|
1966年
|
「律法における否定の特質」
|
左近淑
|
第04号
|
1966年
|
「預言者における否定の特質」
|
関根正雄
|
第04号
|
1966年
|
「伝道の書における虚無思想」
|
木田献一
|
第04号
|
1966年
|
「ヨブ記における否定」
|
並木浩一
|
第04号
|
1966年
|
「マタイとルカにおける罪とその否定の仕方について」
|
八木誠一
|
第04号
|
1966年
|
「ヨハネ福音書における否定」
|
川島貞雄
|
第04号
|
1966年
|
「ローマ書の否定思想の一考察」
|
木下順治
|
第04号
|
1966年
|
「グノーシスにおける創造と無知 ── いわゆる『この世の起源について』の場合」
|
荒井献
|
第05号
|
1967年
|
「翻訳としての七十人訳」
|
ハイム・ラビン
|
第05号
|
1967年
|
「デボラの歌におけるイスラエル部族の問題」
|
池田裕
|
第05号
|
1967年
|
「選びの信仰の起源」
|
木田献一
|
第05号
|
1967年
|
「いわゆる『聖書考古学』について」
|
後藤光一郎
|
第05号
|
1967年
|
「ヘブライ語とヘブライ的思考」
|
関根正雄
|
第05号
|
1967年
|
「RAQの用法について」
|
西村俊昭
|
第05号
|
1967年
|
「Typosの用法について ── 予型的解釈の成立に関する一研究」
|
高森昭
|
第05号
|
1967年
|
「ヨハネのアポクリュフォンにおけるソフィア・キリスト論」
|
荒井献
|
第05号
|
1967年
|
「マタイ福音書における民族と共同体」
|
田川建三
|
第05号
|
1967年
|
「イエスの思想解釈の視点」
|
八木誠一
|
第05号
|
1967年
|
「ヨハネ福音書における父と子」
|
間垣洋助
|
第06号
|
1968年
|
「日本の聖書学 ── この十年」
|
中沢洽樹
|
第06号
|
1968年
|
「小塩力とその説教」
|
深津文雄
|
第06号
|
1968年
|
「小塩力先生の晩年」
|
小田切信男
|
第06号
|
1968年
|
「体系的新約神学の基礎概念と基礎構造について ── 一つの見通し」
|
八木誠一
|
第06号
|
1968年
|
「マルコ福音書の受難神学 ── 伝承史的方法に対する疑問」
|
田川建三
|
第06号
|
1968年
|
「エルサレム原始教団における,いわゆる財産の共有制について」
|
荒井献
|
第06号
|
1968年
|
「パウロにおける苦難の理解」
|
佐竹明
|
第06号
|
1968年
|
「出エジプト記19章3-8節研究」
|
左近淑
|
第06号
|
1968年
|
「士師記14,15章の理解」
|
柴山栄
|
第07号
|
1969年
|
「イスラエル思想史の基盤」
|
関根正雄
|
第07号
|
1969年
|
「祭司伝承におけるシナイ契約の問題」
|
カール・ワルケンホスト
|
第07号
|
1969年
|
「エゼキエル8:14とタンムズ・イシュタル型信仰 (ショート・ノート)」
|
後藤光一郎
|
第07号
|
1969年
|
「マタイ神学におけるイエスの歴史」
|
小河陽
|
第07号
|
1969年
|
「イエスとユダヤ教 ── 食物規定の問題をめぐって」
|
川島貞雄
|
第07号
|
1969年
|
「ヘレニズム教団における洗礼理解」
|
斎藤忠資
|
第07号
|
1969年
|
「パウロの手紙の前文祝祷の解釈について (ショート・ノート)」
|
木下順治
|
第08号
|
1971年
|
「パウロの歴史理解の基本的諸問題」
|
ウルリヒ・ルツ
|
第08号
|
1971年
|
「最近の旧約学におけるアンフィクチオニー仮説の位置」
|
並木浩一
|
第08号
|
1971年
|
「申命記とその影響 ── 啓示の歴史的背景」
|
関根正雄
|
第08号
|
1971年
|
「新約聖書における歴史と啓示」
|
八木誠一
|
第08号
|
1971年
|
「ヨナ書をめぐる問題」
|
西村俊昭
|
第08号
|
1971年
|
「パウロの終末理解 ── 第Iコリント15:20-28を中心として」
|
青野太潮
|
第09号
|
1972年
|
「DEBBER考」
|
レオンハルト・ロスト
|
第09号
|
1972年
|
「ハンナの歌とヘブライ民族叙事詩」
|
ハイム・ラビン
|
第09号
|
1972年
|
「嫉む神」
|
深津文雄
|
第09号
|
1972年
|
「知恵についての一試論」
|
後藤光一郎
|
第09号
|
1972年
|
「ホセアに於けるヤコブ伝承」
|
早川貢右
|
第09号
|
1972年
|
「ダビデのエルサレム征服 ── サム下五6-10についての一歴史的考察 ──」
|
池田裕
|
第09号
|
1972年
|
「sapat/wayyispot ’et-yisra’el」
|
石田友雄
|
第09号
|
1972年
|
「アモスの比喩 ── 文体論的考察 ──」
|
木幡藤子
|
第09号
|
1972年
|
「士師記・ヨシュア記の残存先住民の表」
|
小泉達人
|
第09号
|
1972年
|
「旧約研究ノート ── トーラーにおける“samayim”の用法と、その歴史的背景 ──」
|
三笠宮崇仁
|
第09号
|
1972年
|
「パレスチナ系ユダヤ人アラム語の研究」
|
村岡崇光
|
第09号
|
1972年
|
「『僕の歌』 ── 第二の十年 ──」
|
中沢洽樹
|
第09号
|
1972年
|
「イスラエル部族表における十二部族組織の展開」
|
並木浩一
|
第09号
|
1972年
|
「ヨナ書の問題 ── 預言と知恵 ──」
|
西村俊昭
|
第09号
|
1972年
|
「アモス書五章21-27節の釈義的研究」
|
左近淑
|
第09号
|
1972年
|
「マリ文書における『自由』の構造 ── wasarumの考察 ──」
|
柴山栄
|
第09号
|
1972年
|
「レビ記一七―二六章における聖の要請」
|
時田光彦
|
第09号
|
1972年
|
「聖書における歴史と思想 ── 嘆きの歌における契約更新の信仰 ──」
|
K・ワルケンホースト
|
第09号
|
1972年
|
「古代オリエントにおける『神の言葉の力』モチーフについて」
|
吉田泰
|
第09号
|
1972年
|
「第IIコリント五章1-10節に於けるパウロと彼の論敵の思想について」
|
青野太潮
|
第09号
|
1972年
|
「第Iコリントにおけるパウロの論敵の思想とグノーシス主義の問題」
|
荒井献
|
第09号
|
1972年
|
「ヨハネ福音書におけるイエスの自己証言」
|
藤村和義
|
第09号
|
1972年
|
「若年記パウロのエルサレム行について ── van Unnik説の検討を中心として ──」
|
秀村欣二
|
第09号
|
1972年
|
「ディオグネートスへの手紙 ── 一一、一二章の問題を中心に ──」
|
川村輝典
|
第09号
|
1972年
|
「ヨハネ福音書における栄光」
|
間垣洋介
|
第09号
|
1972年
|
「ヨハネ福音書におけるイスカリオテのユダに関する一考察」
|
松永希久夫
|
第09号
|
1972年
|
「原始教会の伝承についての一考察」
|
小河陽
|
第09号
|
1972年
|
「イエスゆえの患難」
|
佐竹明
|
第09号
|
1972年
|
「新約思考の根本にあるもの」
|
八木誠一
|
第09号
|
1972年
|
「バシレイア概念を問う」
|
善野碩之助
|
第09号
|
1972年
|
「創造信仰と自然神学 ── バルトとモルトマン ──」
|
泉治典
|
第09号
|
1972年
|
「黙示文学の理解をめぐる現代神学の問題 ── パネンベルクおよびモルトマンの場合 ──」
|
高森昭
|
第09号
|
1972年
|
「安楽死と人の『定め』」
|
小田切信男
|
第10号
|
1974年
|
「グノーシス主義の研究、特にそのキリスト教史的位置づけについて ── 荒井献君著『原始キリスト教とグノーシス主義』の解説と書評をかねて ──」
|
石原謙
|
第10号
|
1974年
|
「ルカにおけるドクサ・モチーフをめぐって」
|
加山久夫
|
第10号
|
1974年
|
「ギルボアの戦い」
|
小泉達人
|
第10号
|
1974年
|
「第一マカベア書における預言者句の研究」
|
土岐健治
|
第10号
|
1974年
|
「調停者マタイ ── マタイ一〇章使徒派遣説話の考察 ──」
|
角田信三郎
|
第10号
|
1974年
|
「構造主義と聖書学」
|
八木誠一
|
第11号
|
1975年
|
「『個と共同体』との関連における『隣人愛』」
|
高橋敬基
|
第11号
|
1975年
|
「ルカにおける『個人倫理』と『共同体倫理』」
|
荒井献
|
第11号
|
1975年
|
「ヨハネ福音書における個と共同体」
|
大貫隆
|
第11号
|
1975年
|
「旧約思想の特質 ── 個と共同体の問題を中心に ──」
|
関根正雄
|
第11号
|
1975年
|
「古代イスラエルの『共同体』形成 ── メンデンホールの『ひき上げ』説を中心に ──」
|
守屋彰夫
|
第11号
|
1975年
|
「族長宗教の一局面 ── 創世記一五章の宗教史的解明の試み」
|
月本昭男
|
第11号
|
1975年
|
「モルトマンの共同体論への批判」
|
泉治典
|
第12号
|
1976年
|
「最近の旧約学における『断言法』の諸問題」
|
左近淑
|
第12号
|
1976年
|
「民数記二〇章1-13節の伝承史」
|
木幡藤子
|
第12号
|
1976年
|
「コーヘレトにおける『神の恐れ』についての覚え書 ── セミオロジーの観点から ──」
|
西村俊昭
|
第12号
|
1976年
|
「エレミヤにおける『北よりの敵の歌』について ── 初期エレミヤ像試論 ──」
|
小田島太郎
|
第12号
|
1976年
|
「ワンダーラディカリズムとマタイ福音書」
|
角田信三郎
|
第12号
|
1976年
|
「ヨハネ一51について」
|
間垣洋介
|
第12号
|
1976年
|
「ヨハネ福音書におけるイエスの言行によるあかしについて」
|
伊吹雄
|
第13号
|
1978年
|
「古代イスラエル史の研究方法について」
|
石田友雄
|
第13号
|
1978年
|
「コーヘレト一2-11のマーシャール (その二)」
|
西村俊昭
|
第13号
|
1978年
|
「第二イザヤ書編集史試論」
|
関根清三
|
第13号
|
1978年
|
「マタイ福音書における弟子の宣教」
|
小河陽
|
第13号
|
1978年
|
「イエス磔殺ペリコーペの伝承史的試論 ── マルコ福音書一五20b-41 ──」
|
佐藤研
|
第13号
|
1978年
|
「新約聖書における復活顕現記事の考察 ── ルカ福音書24:13-35aを中心として ──」
|
山内眞
|
第14号
|
1979年
|
「ソロモン時代におけるイスラエルの北方交易」
|
池田裕
|
第14号
|
1979年
|
「イスラエル文学史はいかにして可能か」
|
関根正雄
|
第14号
|
1979年
|
「パウロにおける神の審判の理解」
|
青野太潮
|
第14号
|
1979年
|
「共観福音書における安息日問題」
|
川島貞雄
|
第15号
|
1980年
|
「申命記法の編集 ── ザイツ説の検討を中心に ──」
|
渡辺和子
|
第15号
|
1980年
|
「ホセア預言の特質 ── 比喩的表現を手がかりとして ──」
|
清重尚弘
|
第15号
|
1980年
|
「ルツ記の文学的構造と主題」
|
左近淑
|
第15号
|
1980年
|
「使徒教父におけるパウロの受容」
|
青野太潮
|
第15号
|
1980年
|
「epitelesei axri hmeras xristou ihsou ── 『ピリピ人への手紙』1章6節について ── ]
|
川島重成
|
第16号
|
1981年
|
「大洪水物語の歴史編集的役割」
|
木川田満
|
第16号
|
1981年
|
「古代メソポタミアにおける『預言』について ── 新アッシリアの『預言』と古代イスラエル預言との比較を重点に ──」
|
月本昭男
|
第16号
|
1981年
|
「イザヤ42:1-4におけるミシュパートの再検討」
|
和田幹男
|
第16号
|
1981年
|
「イエスの譬話における三行為体構造」
|
斎藤忠資
|
第16号
|
1981年
|
「ヨハネ福音書の聖餐的箇所 (6:51c-58)に関する若干の考察」
|
小林稔
|
第16号
|
1981年
|
「ロマ書7:7-25のergwについての一察 ── パウロの回心のテーマによせて ──」
|
田中勇二
|
第17号
|
1982年
|
「旧約学における『契約 (berith)』の問題」
|
山我哲雄
|
第17号
|
1982年
|
「ホセアにおける歴史と実存 ── ウツシュナイダーのホセア研究に学んで ──」
|
泉治典
|
第17号
|
1982年
|
「初期キリスト論形成についての一考察 ── ピリピ書2:6-11の文体構造を中心として ──」
|
永田竹司
|
第17号
|
1982年
|
「パウロ伝承の文学・社会学的検討 ── 第一テモテ1:8-11の律法理解を中心として ──」
|
高橋敬基
|
第18号
|
1983年
|
「預言者ホセアにおける終末論的否定 ── ホセア書12章のヤコブ伝承をめぐって ──」
|
鈴木佳秀
|
第18号
|
1983年
|
「義認と聖化 ── 聖書神学思想史の立場から ──」
|
関根正雄
|
第18号
|
1983年
|
「ヨハネ言語空間 (19:31-37)における言語身分の諸層」
|
宮本久雄
|
第18号
|
1983年
|
「エペソ人への手紙1章13節の「あなたがた」の機能と意義 ── エペソ人への手紙の文学類型について ──」
|
宇佐美公史
|
第19号
|
1984年
|
「ソロモンの王位継承 ── 歴史と歴史記述をめぐる諸問題 ──」
|
石田友雄
|
第19号
|
1984年
|
「トビト書における民間説話の構造」
|
斎藤忠資
|
第19号
|
1984年
|
「トマス福音書とマタイ福音書13章の譬をめぐって」
|
豊島克己
|
第19号
|
1984年
|
「ナグ・ハマディ写本と新約聖書」
|
荒井献
|
第20号
|
1985年
|
「歴史学としての、イスラエル古代史の構築を目指して ── 遊牧時代より筆頭四部族の成立まで ──」
|
小泉達人
|
第20号
|
1985年
|
「申命記改革における王国の司法行政」
|
鈴木佳秀
|
第20号
|
1985年
|
「テキスト効用論的釈義の試み ── ヨハネ15:18-16:4aに寄せて ──」
|
大貫隆
|
第21号
|
1986年
|
『歴史学としての、イスラエル古代史の構築を目指して ── 遊牧時代より筆頭四部族の成立まで』をめぐって」
|
小泉達人
|
第21号
|
1986年
|
「第三イザヤの編年体的解釈 ── イザヤ書61章1-3節の位置および意味付けの問題を中心に」
|
関根清三
|
第21号
|
1986年
|
「実在隠喩としてのソーマ〔からだ〕」
|
宇佐美公史
|
第21号
|
1986年
|
「『名の迫害』の概念規定によせて ── 新約聖書と総督プリーニウス」
|
保坂高殿
|
第22号
|
1987年
|
「『海の奇蹟』 ── 出エジプト記14-15章の伝承史的研究 ──」
|
山我哲雄
|
第22号
|
1987年
|
「預言の文書化と終末論の問題 ── イザヤの『回顧録』を中心として ──」
|
木田献一
|
第22号
|
1987年
|
「『みことばのなかで作られたものは生命であった』(?) ── ヨハネ1:3-5についての一提案 ──」
|
小林稔
|
第22号
|
1987年
|
「ヨハネ20:17試論」
|
伊吹雄
|
第22号
|
1987年
|
「ルカとローマ市民権 ── 『おそれ』のモチーフがもつ文学的機能の考察から ──」
|
保坂高殿
|
第23号
|
1989年
|
「創世記1章2節の所謂『混沌』について」
|
津村俊夫
|
第23号
|
1989年
|
「『善悪の知識の樹』とは何か ── 創世記2章4節後半―3章24節の解釈をめぐって ──」
|
関根清三
|
第23号
|
1989年
|
「ハガルとイシュマエル ── 創世記16章、21章の伝承史的研究 ──」
|
山我哲雄
|
第23号
|
1989年
|
「ヘブロンの赤い土 ── 失われたアダムの子の感性を求めて ──」
|
池田裕
|
第23号
|
1989年
|
「パロの心を頑なにするヤハウェ ── 祭司文書の出エジプトの物語 ──」
|
木幡藤子
|
第23号
|
1989年
|
「ギレアドとガド」
|
小泉達人
|
第23号
|
1989年
|
「ナタン預言 ── 歴史記述的解釈 ──」
|
石田友雄
|
第23号
|
1989年
|
「敵なる神」
|
柴田文明
|
第23号
|
1989年
|
「アモスとホセア ── 社会批判と祭儀を中心に ──」
|
小林進
|
第23号
|
1989年
|
「ホセア預言から見たシリア・エフライム戦争」
|
鈴木佳秀
|
第23号
|
1989年
|
「釈義ノート ── エゼキエル書16章30節a ──」
|
守屋彰夫
|
第23号
|
1989年
|
「枯れ骨の復活 ── エゼキエル書37章1-14節の釈義 ──」
|
泉治典
|
第23号
|
1989年
|
「預言と黙示 ── その連続性と相違について ──」
|
木田献一
|
第23号
|
1989年
|
「ヨブ記をめぐる二、三の省察」
|
月本昭男
|
第23号
|
1989年
|
「コーヘレトの『時間』についての一考察」
|
西村俊昭
|
第23号
|
1989年
|
「後期古典ヘブライ語における名詞文」
|
村岡崇光
|
第23号
|
1989年
|
「関根正雄先生の神観の特質 ── イザヤの贖罪体験の解釈を手がかりにして ──」
|
量義治
|
第23号
|
1989年
|
「イエスの言葉の機能についての一試論」
|
八木誠一
|
第23号
|
1989年
|
「メタファーとしての宝と真珠の譬話」
|
斎藤忠資
|
第23号
|
1989年
|
「新約聖書の『神学』と現代的使信 ── マルコ7:24-30を中心として ──」
|
高橋敬基
|
第23号
|
1989年
|
「ルカ福音書の序文にみる使信と伝達」
|
加山久夫
|
第23号
|
1989年
|
「『不正な管理人』のたとえの一解釈」
|
川島重成
|
第23号
|
1989年
|
「『パリサイ人と取税人の祈り』のたとえ ── ルカ19:9-14について ──」
|
伊吹雄
|
第23号
|
1989年
|
「前ヨハネ福音書文書資料の発展と伝達 ── ヨハネ12:37-50を中心に ──」
|
土戸清
|
第23号
|
1989年
|
「ステパノの弁明 ── その使信と伝達 ──」
|
荒井献
|
第23号
|
1989年
|
「ローマ人への手紙9章5節の解釈について」
|
川島貞雄
|
第23号
|
1989年
|
「パウロの『異言』理解」
|
青野太潮
|
第23号
|
1989年
|
「『ガラテヤ人への手紙』と『弁明書簡』 ── H・D・」・ベッツ説をめぐって ──」
|
山内眞
|
第23号
|
1989年
|
「新しさの伝達と使信 ── Iテサロニケ4:8-9 ──」
|
宇佐美公史
|
第23号
|
1989年
|
「牧会書簡の『生活世界』」
|
土屋博
|
第23号
|
1989年
|
「ヘブル書の文学的構造について」
|
川村輝典
|
第23号
|
1989年
|
「Iヨハネ1:1とトマス福音書語録17 ── 伝承史的関連から見たIヨハネの論敵の問題 ──」
|
大貫隆
|
第23号
|
1989年
|
「ヨハネ黙示録の救済理解」
|
佐竹明
|
第24号
|
1991年
|
「『契約の書』の時代」
|
大住雄一
|
第24号
|
1991年
|
「イザヤ書6章における『かたくなの預言』」
|
大島力
|
第24号
|
1991年
|
「『放蕩息子』の譬物語 (ルカ15:11-32) ── ルカ特殊伝承におけるイエスの譬物語の一側面 ──」
|
廣石望
|
第24号
|
1991年
|
「パウロとそのいわゆる『論敵』の関係について ── コリント人への第二の手紙10―13章の場合 ──」
|
須藤伊知郎
|
第25号
|
1992年
|
「初期イスラエルの考古学的・人類学的考察 ── カナン文化との断絶と継続 ──」
|
宮崎修二
|
第25号
|
1992年
|
「ヨシヤ王による占領政策 ── 同化政策に見られる新しいイスラエル像の構築 ──」
|
鈴木佳秀
|
第25号
|
1992年
|
「パウロのイスラエル理解 ── 特にローマ書九章における旧約聖書理解を手がかりに ──」
|
泉守彦
|
第25号
|
1992年
|
「『からだの甦り』と『アダム―キリスト論』 ── 第一コリント一五42-49 ──」
|
朴憲郁
|
第26号
|
1993年
|
「初期預言文学におけるトポスの問題 ── 『預言文学』と『宮廷文学』の観点から ──」
|
木田献一
|
第26号
|
1993年
|
「マナセとマキル」
|
小泉達人
|
第26号
|
1993年
|
「コーヘレトの知恵 ── コーヘレトの書の統一的理解のために ──」
|
加藤久美子
|
第26号
|
1993年
|
「イエスと弟子たち ── マルコ福音書における『弟子』の文学的機能をめぐって ──」
|
挽地茂男
|
第26号
|
1993年
|
「pistis ihesou xristou ── 言語使用の観察に基づく論考 ──」
|
太田修司
|
第27号
|
1994年
|
「パウロの『十字架の神学』の社会倫理への射程」
|
青野太潮
|
第27号
|
1994年
|
「イザヤ書24-27章の文学的構造と主題」
|
大島力
|
第27号
|
1994年
|
「ゼカリヤにおけるメシア像の変容」
|
北博
|
第27号
|
1994年
|
「ルカ福音書における『ガリラヤから従った女性たち』をめぐって ── 読書行為考察の試み ──」
|
細田あや子
|
第27号
|
1994年
|
「遺言は取り消し得ないのか ── ガラテヤ3章15-18節の問題 ──」
|
原口尚彰
|
第28号
|
1995年
|
「最近の五書研究を整理してみると」
|
木幡藤子
|
第28号
|
1995年
|
「申命記法の重心」
|
大住雄一
|
第28号
|
1995年
|
「詩篇におけるハースィードの特色およびマスキーリームとの関連について」
|
小林祥人
|
第28号
|
1995年
|
「ルカ福音書5章1節-11節における社会思想」
|
加藤隆
|
第28号
|
1995年
|
「イエスにとっての《神の支配》 ── その『終末論的』解釈の再検討 ──」
|
上村静
|
第29号
|
1996年
|
「新約聖書における民衆と民族 ── パウロとマルコ福音書を中心に ──」
|
高橋敬基
|
第29号
|
1996年
|
「出エジプト記19-24章の神顕現・契約物語におけるエローヒスト」
|
大野恵正
|
第29号
|
1996年
|
「イザヤ書34-35章の統一性の問題」
|
大島力
|
第29号
|
1996年
|
「牧会書簡の敵対者 ── その『一体性』の問題を中心に ──」
|
筒井賢治
|
第29号
|
1996年
|
「レビ記ラッバーにおける<贖罪>の諸層 ──〈贖罪〉に働く2つのベクトル ──」
|
藤井悦子
|
第30号
|
1997年
|
「『アレッポ写本 (The Aleppo Codex)と東西写本』 ── ベン・アシェル写本をめぐるマソラ本文伝承の歴史的考察 ──」
|
本間敏雄
|
第30号
|
1997年
|
「ベニヤミン族の成立と興隆」
|
小泉達人
|
第30号
|
1997年
|
「百卒長のアイロニー ── マルコ15章39節と物語批評 ──」
|
太田修司
|
第30号
|
1997年
|
「『パウロにおける信仰義認と終末時の裁き』」
|
朴憲郁
|
第31号
|
1998年
|
「応報の神は存在するか ── 贖罪思想の系譜と争点 ──」
|
関根清三
|
第31号
|
1998年
|
「創世記1―3章の構成」
|
円谷勝子
|
第31号
|
1998年
|
「前王国期(初期)イスラエル社会の土地所有制」
|
金性済
|
第31号
|
1998年
|
「史的イエスの探求は続く」
|
エチエンヌ・トロクメ
|
第31号
|
1998年
|
「『命を受けるため』 (ヨハ20:31)はなぜアオリストでなく現在幹なのか」
|
小林稔
|
第32号
|
1999年
|
「パウロの『諸民族』伝道の諸相」
|
朴憲郁
|
第32号
|
1999年
|
「<神のない記述>の意義を探る ── 創世記12章4節の解釈をめぐって ──」
|
竹内裕
|
第32号
|
1999年
|
「ra‘の破壊の波及 ── 哀歌2章、1章、4章の連関性に基づいて ──」
|
小河信一
|
第32号
|
1999年
|
「聖書注解史序論:第二神殿時代の歴史記述と聖書注解の問題」
|
手島勲矢
|
第32号
|
1999年
|
「ヘレニズム・ローマ期の修辞学的歴史叙述理論 ── ルカ文書の歴史叙述の背景として ──」
|
山田耕太
|
第33号
|
2000年
|
「イザヤ書原語データ・ベースの作成による翻訳比較研究 ── 関根清三訳『イザヤ書』を中心に ──」
|
能城一郎
|
第33号
|
2000年
|
「『12族長の遺言』研究 ── porneia表象に関する考察 ──」
|
吉田忍
|
第33号
|
2000年
|
「牧会書簡 ── パウロの初期の手紙」
|
G・ネラン
|
第33号
|
2000年
|
「新約『家庭道徳訓』の評価をめぐって」
|
小河陽
|
第33号
|
2000年
|
「マルコ福音書4章12節におけるイザヤ書6章10節の引用をめぐって」
|
菅原裕治・月本昭男
|
第34号
|
2001年
|
「ユダとイスラエル ── 列王記に見る言葉の違い ──」
|
池田潤
|
第34号
|
2001年
|
「イザヤ書6章9-10節 ── 頑迷預言? ──」
|
上村静
|
第34号
|
2001年
|
「イザヤの頑迷預言をめぐる覚書 ── 拙論の論評にお応えしつつ ──」
|
関根清三
|
第34号
|
2001年
|
「マルコ福音書における弟子の無理解」
|
矢野睦
|
第34号
|
2001年
|
「「種蒔き」の譬えの解釈 (マルコ4:14-20) と寓喩話法」
|
廣石望
|
第35号
|
2002年
|
「ヨブ記とユダヤ民族の精神」
|
並木浩一
|
第35号
|
2002年
|
「ソロモンの罪 ── 列王記上11章と申命記史家 ── 」
|
山吉智久
|
第35号
|
2002年
|
「イエス“裁判”に寄せて」
|
保坂高殿
|
第35号
|
2002年
|
「共観福音書における離婚・再婚批判テクストの伝承史的考察 ── マルコ10章11-12節、マタイ5章32節、19章11節、ルカ16章18節 ──」
|
山野貴彦
|
第35号
|
2002年
|
「テモテの割礼」
|
太田修司
|
第36号
|
2003年
|
「古代イスラエル史研究の最近の争点から」
|
山我哲雄
|
第36号
|
2003年
|
「イエスの譬えと言語行為」
|
廣石望
|
第36号
|
2003年
|
「マルコ福音書における民衆」
|
矢野睦
|
第36号
|
2003年
|
「ヘロデ・アグリッパ一世による迫害とエルサレム原始教会」
|
山吉裕子
|
第37号
|
2004年
|
「ペルシャ時代の大祭司の系譜──初期ユダヤ教の一側面──」
|
守屋彰夫
|
第37号
|
2004年
|
「マタイ福音書における知恵と知者」
|
東よしみ
|
第37号
|
2004年
|
「クリスマスの起源」
|
保坂高殿
|
第38号
|
2005年
|
「詩と自然と旧約聖書」
|
池田裕
|
第38号
|
2005年
|
「イエスとレプラ──イエスにとってイスラエルとは?──」
|
中野実
|
第38号
|
2005年
|
「ヤハウィスト──モーセ五書の最古の編集者」
|
クリストフ・レヴィン(山我哲雄・訳)
|
第38号
|
2005年
|
「ガリラヤにおけるユダヤ教」
|
フロワルド・ヒュッテンマイスター(山野貴彦・訳)
|
第39号
|
2006年
|
「メルエンプタハの戦勝碑に見られるイスラエル」
|
杉江拓磨
|
第39号
|
2006年
|
「マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』 理論枠組みについての一考察」
|
高橋優子
|
第39号
|
2006年
|
「マルコ福音書4章12節の翻訳とその解釈」
|
吉田忍
|
第39号
|
2006年
|
「伝承史から探る塗油物語の起源──マタイ26:6-13; マルコ14:3-9; ルカ7:36-50; ヨハネ12:1-8──」
|
村上信児
|
第39号
|
2006年
|
「ユダヤ教知恵文学における『人格化された知恵』の系譜──ヨハネ福音書序文、ロゴス概念の背景として──」
|
三浦望
|
第39号
|
2006年
|
「初期教会におけるアイデンティティ形成の模索(ガラ2:1-14) ──社会科学的解釈のためのエテュード(アイデンティティ形成理論の適用)──」
|
浅野淳博
|
第40号
|
2007年
|
「歴代誌におけるヨシャファト王とその対外政策」
|
山我哲雄
|
第40号
|
2007年
|
「雌鹿が雄鹿のように谷川の水をあえぎもとめ──詩篇42:2a (MT) の信仰増分石とその翻訳──」
|
野口誠
|
第40号
|
2007年
|
「トマス福音書語録77とグノーシス主義のアニミズム」
|
大貫隆
|
第40号
|
2007年
|
「女性は感情的で男性は理性的? ──感情とロゴスの古代における両性との関連づけ 歴史的心理学のための一章──」
|
ペトラ・フォン・ゲミュンデン(大貫隆・訳)
|
第40号
|
2007年
|
「『アンティオキアの衝突』とパウロの思想──信仰義認論をめぐって──」
|
田中健三
|
第41号
|
2009年
|
「『裸』になって初めて知った『善と悪』──堕罪物語(創2:4b-3:24)解釈の試み──」
|
朽木裕二
|
第41号
|
2009年
|
「ナタン預言の成立」
|
山我哲雄
|
第41号
|
2009年
|
「エレミヤ書「告白」の読み方についての一試行 ──A.R.ダイアモンドの通時的な方法を中心として──」
|
飯川雅孝
|
第41号
|
2009年
|
「エゼキエル書におけるアッカド語表現──26章9節aαの翻訳をめぐって──」
|
月本昭男
|
第41号
|
2009年
|
「義人たちは若獅子のように──箴言28-29章における義人、不法者、社会、国家──」
|
加藤久美子
|
第41号
|
2009年
|
「秘密を明かす神 ──ダニエル書2章の知恵理解──」
|
北博
|
第41号
|
2009年
|
「セレウコス朝時代における神殿監督職」
|
三津間康幸
|
第41号
|
2009年
|
「サマリア五書における本文伝承の諸特徴について──ゲリジム山伝承とモーセの十災を中心に──」
|
守屋彰夫
|
第41号
|
2009年
|
「ファリサイ派の救済思想に関する宗教学的分析──神殿供犠とシュマアの朗読の関係をめぐって──」
|
市川裕
|
第41号
|
2009年
|
「マックス・ウェーバーと現代ヘブライ語聖書研究──英語圏での一動向──」
|
高橋優子
|
第41号
|
2009年
|
「ヨブ夫妻の図像学──ヨブ記2章9節をめぐって──」
|
細田あや子
|
第41号
|
2009年
|
「断想 聖書と聖書学」
|
八木誠一
|
第41号
|
2009年
|
「大貫『イエス論』考」
|
上村静
|
第41号
|
2009年
|
「イエスによる病気治癒と悪霊祓いの意味についての一考察──ユダヤ、ヘレニズム的背景との比較を視野に──」
|
本多峰子
|
第41号
|
2009年
|
「『神の国』とイエスの譬え ──関係規定のための解釈学的考察──」
|
廣石望
|
第41号
|
2009年
|
「福音書は伝記文学か?」
|
山田耕太
|
第41号
|
2009年
|
「受難物語研究の方向性──伝承の最古層および悲劇的歴史記述を巡って──」
|
土居由美
|
第41号
|
2009年
|
「マタイ16章17節におけるマカリズム(幸いの宣言)」
|
原口尚彰
|
第41号
|
2009年
|
「イエスの呪い──「枯らされる無花果の木」の物語──」
|
佐藤研
|
第41号
|
2009年
|
「ヨハネ福音書12章25節に関する一考察──「二つのアイオーン」観を前提とした「永遠の生命」──」
|
三浦望
|
第41号
|
2009年
|
「ローマ人への手紙8章28節──本文と解釈──」
|
野口誠
|
第41号
|
2009年
|
「コリント人への第一の手紙における知恵と知者」
|
東よしみ
|
第41号
|
2009年
|
「第一コリント書7章における〈非婚の優位〉の問題」
|
朴憲郁
|
第41号
|
2009年
|
「パウロ時代の文献によるerga nomouの意味に関する研究」
|
山本康弘
|
第41号
|
2009年
|
「子を産むことによって救われる──Iテモテ2:15の文脈と背景──」
|
辻学
|
第41号
|
2009年
|
「世にあるキリスト者 ──ディオグネートスヘの手紙5,6章の研究──」
|
川村輝典
|
第41号
|
2009年
|
「巨大な地下迷宮? ──タティアノスのディアテッサロンをめぐって──」
|
戸田聡
|
第41号
|
2009年
|
「アレクサンドリアの聖書解釈の伝統における貧困と富の理解」
|
出村みや子
|
第41号
|
2009年
|
「古代キリスト教における十字形磔刑図像の成立」
|
保坂高殿
|
第42号
|
2010年
|
「『金持ちとラザロの譬え』の民話的背景」
|
太田修司
|
第42号
|
2010年
|
「135番目の詩編はなぜ出エジプトの賛美か」
|
大住雄一
|
第42号
|
2010年
|
「黙示の起源は預言か知恵か」
|
小友聡
|
第42号
|
2010年
|
「死海文書アラム語『外典創世記』翻訳と注解」
|
守屋彰夫
|
第42号
|
2010年
|
「旧約聖書における審判思想の歴史的発展過程についての考察──ペルシア時代におけるユダヤ共同体の懲戒的正義に関する問いとその時代背景を中心に──」
|
魯恩硯
|
第42号
|
2010年
|
「フィリピ書翻訳に関する一提案──パウロの『反対者』──」
|
浅野淳博
|
第42号
|
2010年
|
「ストアの情念論とグノーシス──ヨハネのアポクリュフォン §51-54 (NHC II)における反ストア的編集について──」
|
大貫隆
|
第42号
|
2010年
|
「ヨハネ福音書における神殿モティーフとその意味」
|
三浦望
|
第42号
|
2010年
|
「ルカのファリサイ派像」
|
嶺重淑
|
第42号
|
2010年
|
「イエスは十字架につけられているのか」
|
吉田忍
|
第43号
|
2011年
|
「聖書と考古学──聖書考古学の限界と考古学からの展望──」
|
長谷川修一
|
第43号
|
2011年
|
「歴代誌の外政思想と歴史像」
|
山我哲雄
|
第43号
|
2011年
|
「パウロの個人宛書簡──偽名文書としての牧会書簡の戦略──」
|
辻学
|
第43号
|
2011年
|
「『エウセビオスのカノン』に見る福音書理解」
|
戸田聡
|
第43号
|
2011年
|
「ユリアヌスのキリスト教批判における聖書解釈」
|
中西恭子
|
第43号
|
2011年
|
「パウロは十字架につけられているのか──ガラテヤの信徒への手紙2章19節の解釈──」
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吉田忍
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第44号
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2012年
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「助産婦とエジプト王──出エジプト記1章15-22節の文学的考察──」
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柊暁生
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第44号
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2012年
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「バビロンでの息災祈願の奉献における神殿エサギルと王権」
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三津間康幸
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第44号
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2012年
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「死人たちには未来がある──マタイ8,21f/ルカ9,59fの新しい読み方──」
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大貫隆
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第44号
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2012年
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「ガリラヤにおけるイエス──北からのよき知らせ?──」
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ショーン・フレイン(吉田忍/佐藤研・共訳)
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第44号
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2012年
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「世界は十字架につけられているのか──ガラテヤの信徒への手紙6章14節の解釈──」
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吉田忍
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第45号
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2013年
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「鉄は鉄を研ぐ──箴言(ミシュレー)第II部、第V部におけるレア(rea‘I)──」
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加藤久美子
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第45号
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2013年
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「申命記史書におけるダビデ王朝」
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山我哲雄
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第45号
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2013年
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「エゼキエル書28章11節-19節におけるケルブ」
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山畑譲
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第45号
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2013年
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「『福音にのっとった殉教』によるインクルーシオ――『ポリュカルポス殉教物語』の文学的考察――」
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浅野淳博
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第45号
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2013年
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「聖餐の成立をめぐって」
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荒井献
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第45号
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2013年
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「カイサレイアのアレタス『ヨハネの黙示録注解』と10世紀のビザンツにおける終末意識について」
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飯島克彦
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第45号
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2013年
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「ヨハネ福音書における贖罪信仰――文学的方法による分析――」
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伊東寿泰
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第45号
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2013年
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「ルカ福音書17:20-21の解釈――とくにh basileia tou theou entos humwn estinをめぐって――」
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本多峰子
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第45号
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2013年
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「『父の家』(神の家族 Familia Dei)――ヨハネ福音書における『家族』メタファーとその意味――」
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三浦望
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第46号
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2014年
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「種入れぬパンの祭り──農耕の祭りの歴史化という構想について──」
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大住雄一
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第46号
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2014年
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「箴言の二行詩格言集における知恵の教育法」
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加藤久美子
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第46号
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2014年
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「預言と祭儀と黙示の間──ヨエル書の特異性について──」
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金井美彦
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第46号
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2014年
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「ベイティン(ベテル)遺蹟における考古学的調査の課題」
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杉本智俊
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第46号
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2014年
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「なぜ歴代誌家は、アハズヤ王の即位年齢を変えたのか?」
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鈴木淳之介
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第46号
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2014年
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「メツァド・ハシャブヤフ再考」
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高橋優子
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第46号
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2014年
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「歴代誌のイエフ──イエフはアハズヤを殺害したか(歴代誌下22章7-9a節)──」
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長谷川修一
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第46号
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2014年
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「歴代誌におけるナタン預言」 |
山我哲雄
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第46号
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2014年
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「『人も獣も、あなたは救われる、ヤハウェよ』(詩 36:7) ──古代イスラエルにおける神と人と動物──」
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山吉智久
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第46号
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2014年
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「ヤコブの泉──申命記33:28 解釈史──」
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飯郷友康
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第46号
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2014年
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「ユダヤ賢者における『神の国』の観念」
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市川裕
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第46号
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2014年
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「コヘレトとイエス──ニヒリズムによるエゴイズムの克服──」
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上村静
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第46号
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2014年
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「古代ユダヤ教世界における『魔術』──死海文書を手掛かりとして──」
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勝村弘也
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第46号
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2014年
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「四大帝国の興亡?──『王朝予言』の再解釈とダニエル書──」
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杉江拓磨
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第46号
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2014年
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「『バビロン人』『バビロンの子ら』、神殿エサギル──アレクサンドロス大王以降の天文日誌および年代誌による研究──」
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三津間康幸
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第46号
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2014年
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「マソラの永遠のケレーとサマリア五書における当該箇所の比較」
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守屋彰夫
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第46号
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2014年
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「皮膚病(レプラ)をめぐる社会人類学的考察──ルカによる福音書の奇跡物語によせて──」
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大宮有博
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第46号
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2014年
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「マルコによる福音書における「罪人の救い」──頑迷預言と弟子たちの無理解を中心に──」
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本多峰子
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第46号
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2014年
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「罪深い女性の赦し──ルカ福音書7章36-50節の編集史的考察──」
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嶺重淑
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第46号
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2014年
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「Q文書における洗礼者ヨハネに関する説教の修辞学的分析」
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山田耕太
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第46号
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2014年
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「マルコ福音書におけるシナゴーグ共同体の描写と意義」
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山野貴彦
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第46号
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2014年
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「ユダヤ人税納入の神学的意味付け──マタイ福音書17章24-27節の釈義的研究──」
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山吉裕子
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第46号
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2014年
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「ユダヤ教殉教文学とイエスの受難物語──復活の主題をめぐって──」
|
吉田新
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第46号
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2014年
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「ガラテヤ書における邪視告発の応酬──社会科学的批評のためのエチュード──」
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浅野淳博
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第46号
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2014年
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「『キリストのピスティス』の意味を決めるのは文法か?」
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太田修司
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第46号
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2014年
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「パウロの『契約遵法主義』再考──そのユダヤ教的性格をめぐる最近の論争史によせて──」
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河野克也
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第46号
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2014年
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「ヤコブ書におけるイエス伝承の機能」
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辻学
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第46号
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2014年
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「ヘブル書12章4-11節の〈主のパイデイア〉概念について」
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朴憲郁
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第46号
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2014年
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「ディアスポラ書簡としてのテサロニケ書」
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原口尚彰
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第46号
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2014年
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「『種』の隠喩話法と復活──原始キリスト教とその周辺における──」
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廣石望
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第46号
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2014年
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「ヨハネの第一の手紙2章2節、4章10節におけるhilasmosに関する一考察──ヨハネの第一の手紙における贖罪思想──」
|
三浦望
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第46号
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2014年
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「ガラテヤ人への手紙におけるΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ」
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吉田忍
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第46号
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2014年
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「『三部の教え』(NHC I,5)の三層原理」
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大貫隆
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第46号
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2014年
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「トマスによる福音書をめぐる諸問題」
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戸田聡
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第47号
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2016年
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「ヨブ記42章6節をどう解すか─ヨブ記におけるヘブライ語語彙根M’Sをめぐって─」
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山吉智久
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第47号
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2016年
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「使徒行伝6章の『ヘレニスタイ』はだれか─その歴史的実体と地理的拡大─」
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橘耕太
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第47号
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2016年
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「マルコ福音書の文脈におけるイエスの最期の叫び─『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』の意味─」
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本多峰子
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第47号
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2016年
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「『キリストの死』と『神の愛』の関係(ロマ5:5-6:8)」
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吉田忍
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第48号
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2017年
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「ヨシュアは二度死ぬ─士師記の二重の始まり─」
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山吉智久
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第48号
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2017年
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「ユダヤ人共同体における『出身地』」
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橘耕太
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第48号
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2017年
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「イエスとパウロにおける独身─周辺世界の事例との比較にみる動機の特徴─」
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千ヶ崎祥平 |
第49号
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2018年
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「エリフの発言におけるシャハト表現の考察」
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藤方玲衣 |
第49号
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2018年
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「テル・レヘシュ シナゴーグ ―後1世紀のガリラヤにおけるシナゴーグの新例―」
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山野貴彦 |
第49号
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2018年
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「ゲラサのレギオン ―マルコ福音書5章1-20節の伝承史的・社会史的分析と考察―」
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大川大地 |
第49号
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2018年
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「初期ユダヤ教における独身 ―エッセネ派/クムラン宗団およびテラペウタイを中心に―」
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千ヶ崎祥平 |
第49号
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2018年
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「地中海地域における初期キリスト教徒たちの超域的なネットワーク」
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ペーター・ランぺ(山吉裕子訳) |
第50号
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2019年
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「神殿の崩壊―第4エズラ記―」
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上村静 |
第50号
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2019年
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「古代ユダヤ教の贖罪と悔い改め―心の内と儀礼―」
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市川裕 |
第50号
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2019年
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「『お前は彼にとって神となる』(出4:16) ―古代イスラエルにおけるモーセ像の一側面―」
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山吉智久 |
第50号
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2019年
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「初期キリスト教における感情―『牧者』におけるὀξυχολία(憤怒)を例にとった方法論的および内容的な諸問題―」
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ペトラ・フォン・ゲミュンデン(廣石望訳) |
第50号
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2019年
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「贖罪―新約聖書における救済論的メタファーの諸相―」
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廣石望 |
第51号
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2020年
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「五書と申命記主義的歴史書における共存・共生精神」
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魯恩碩 |
第51号
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2020年
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「壁を越える福音―ルカ文書における共生・共存―」
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嶺重淑 |
第51号
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2020年
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「六書的構成と土地の民(アム・ハアレツ)的文書活動」
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日髙貴士耶 |
第51号
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2020年
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「『アラム語レビ文書』の翻訳と註解」
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守屋彰夫 |
第52号
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2021年
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「降霊術師の『腹話術』―サムエル記上28章の解釈史・受容史をめぐって―」
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髙井啓介 |
第52号
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2021年
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「初期キリスト教における死後世界観と殉教者による死者の救済―ローマ期カルタゴでの事例を中心に―」
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大谷哲 |
第52号
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2021年
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「ヨナ書における旧約聖書からの引用句の使用法―神と関わる句に着目して―」
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長井隆児 |
第52号
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2021年
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「彼らは誰と挨拶するのか―ローマ人への手紙16章の機能―」
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橘耕太 |
第52号
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2021年
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「『神の箱』マリア―『ヤコブ原福音書』におけるマリアと家、神殿、民―」
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川越菜都美 |
第53号
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2022年
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「旧約は禍いについていかに語ったか―神の義と人間の成熟などにも触れながら―」
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竹内裕 |
第53号
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2022年
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「ヨハネ黙示録におけるわざわい(πληγή) ―十のわざわい(出エジプト)の再話の伝統を背景に―」
|
遠藤勝信 |
第53号
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2022年
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「ホセア書4章16節の翻訳と解釈―拒絶と罰の狭間に救いは見えるのか―」
|
長井隆児 |
第53号
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2022年
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「『永遠の天幕』(ルカ16:9)のアイロニー―ルカ福音書における悪の人物造形をめぐる一考察―」
|
河野克也 |
第53号
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2022年
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「放浪のラディカリスト・パウロと無償の福音宣教―Iコリント書9章における使徒の報酬とG・タイセン説をめぐって―」
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大川大地 |
第54号 |
2023年 |
「詩篇に同じものは二つとない―詩篇14篇と53篇―」 |
山吉智久 |
第54号 |
2023年 |
「「ヤハウェの謀」―『アトラ・ハシス』および伝ヘシオドス『名婦列伝』との比較による創世記6章1-4節の一解釈―」 |
杉江拓磨 |
第54号 |
2023年 |
「聖書ヘブライ語の状態動詞についての意味論的考察―動態と状態をめぐる意味的曖昧性をめぐって―」 |
佐藤潤 |
第54号 |
2023年 |
「不思議な羊飼い? ―アモス書3章12節の解釈と思想的背景―」 |
長井隆児 |
第54号 |
2023年 |
「へブル書10章11-13節の構文とその釈義的意義」 |
赤城海 |
第54号 |
2023年 |
「神も途上に・再考」 |
大貫隆 |
第54号 |
2023年 |
「古代ユダヤ思想における終末論と創造論―死後の生をめぐる思弁を中心に―」 |
上村静 |